「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名(かいみょう)をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者(かほうもの)でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺(げっけいじ)さんは、ええ利目(ききめ)のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその後(ご)野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団(ふとん)をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震(みぶる)いをした。その後(ご)二絃琴(にげんきん)の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向(ごえこう)を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵(もの)うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫(ぶしょうねこ)となった。主人が書斎にのみ閉じ籠(こも)っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
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