帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐(ばんさん)を食っている。吾輩が椽側(えんがわ)から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと云った。膳の上を見ると、銭(ぜに)のない癖に二三品御菜(おかず)をならべている。そのうちに肴(さかな)の焼いたのが一疋(ぴき)ある。これは何と称する肴か知らんが、何でも昨日(きのう)あたり御台場(おだいば)近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして残喘(ざんぜん)を保(たも)つ方がよほど結構だ。こう考えて膳の傍(そば)に坐って、隙(すき)があったら何か頂戴しようと、見るごとく見ざるごとく装(よそお)っていた。こんな装い方を知らないものはとうていうまい肴は食えないと諦(あきら)めなければいけない。主人は肴をちょっと突っついたが、うまくないと云う顔付をして箸(はし)を置いた。正面に控(ひか)えたる妻君はこれまた無言のまま箸の上下(じょうげ)に運動する様子、主人の両顎(りょうがく)の離合開闔(りごうかいこう)の具合を熱心に研究している。
「おい、その猫の頭をちょっと撲(ぶ)って見ろ」と主人は突然細君に請求した。
「撲てば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっと撲って見ろ」
こうですかと細君は平手(ひらて)で吾輩の頭をちょっと敲(たた)く。痛くも何ともない。
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