「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。 独(けいどく)にして不羣(ふぐん)なりと楚辞(そじ)にあるが寒月君は全く明治の屈原(くつげん)だよ」
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ?やに物堅(ものがた)い性質(たち)だね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ」
「しかし極(きま)りがつかないから……」
「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋(う)め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。寒月君は話をつづける。
「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固(がんこ)なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと云って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺(こん)の無地の袴(はかま)なんぞ穿(は)くんだい。第一(だいち)あれからして乙(おつ)だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入(はい)ると肝心(かんじん)の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
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